KRAFTWERKの前史の前史

発電所員KARLおぢさンの新譜のコトを書こうとして、ちょっと調べモノしてた最中にメッケた資料。つーか「記事」。
http://endlesskraftwerk.tumblr.com/post/52685964649/florian-with-eberhardt-in-student-band-pissoff
http://endlesskraftwerk.tumblr.com/post/52685970899/eberhard-and-florian-together-with-pissoff-1967
発電所設立っつーかKRAFTWERK結成前は、RALFおぢさンとFLORIANおぢさン(当時はお兄様)がORGANISATIONっつーバンドにいたのは知られてるケド、更にその前はPISSOFFっつーバンドに参加してたっつー話。えーっ!ハ・ツ・ミ・ミ!!ちょっと軽く「訳出」してみる。いつもの「超訳」風味。
「学生バンドPISSOFFに出演中のFLORIANとEBERHARD、1967年。EBERHARDはデュッセルドルフ芸術学院の同志と共にバンドを始め、彼等はアンプに繋いだ楽器で実験的音楽を演奏していた。そのうちSCHNEIDERが暗い隅っこでひっそりしているのを彼等のコンサートで度々目撃され始めていた。彼はそこで起きている全てに興味津々のようだった。EBERHARDはFLORIANにフルートを持ってバンドに参加したらと誘った。」
「PISSOFFと一緒のEBERHARDとFLORIANと、1967年。ある日FLORIANは即興音楽コースで出会ったクレーフェルト出身の新人でハモンドオルガンを弾いたある男を引き摺って行った。RALF HÜTTERである。一度のジャムセッションの後、バンドはRALFをメンバーに加えた。そして更にデュッセルドルフのジャズクラブでの数えきれない程の夕べを過ごす事になったのだが、それは、毎度流動的だったバンドメンバーが散り散りになるまで続いた。FLORIANはRALFと共に残り、新しいグループORGANISATION、そして遂に1970年、KRAFTWERKを結成した。
EBERHARDは、デュッセルドルフ劇場で演奏していた彼自身の新バンドに新しいフルート奏者を探していた。その劇場はあるエンジニアを雇っていた。CONNY PLANKである。EBERHARDはFLORIANを引き入れて彼をCONNYに紹介した。CONNYは夜間、彼等に録音スタジオでの演奏を許したので、RALFとFLORIANとはすぐに彼等のファーストアルバム制作に取りかかり始めた。それは容易な道程ではなく、様々な人々が来ては去って行く中、ANDREAS HOHMANNとKLAUS DINGERとのドラム演奏だけがアルバムに残された。
DINGERはバンドの恒久メンバーとして扱われ、SCHNEIDERは、彼自身が一人暮らしを始める為に引っ越す間、彼の家族が居る家にDINGERの住む場所を用意した。 だが、僅か2〜3ヵ月後にRALF HÜTTERはKLAUSとFLORIANとを残してバンドを去る事を決めてしまった。その時期のコンサート演奏は去就を懸けたものだった。SCHNEIDERもDINGERも生活が演奏家としての稼ぎ次第だったからである。彼等は殆ど毎晩演奏しており、様々な演奏家と共演したが、最終的にギタリストのMICHAEL ROTHERに行き当たった。バンドには何時でも膨れ上がる緊張感があり、それはDINGERやROTHERにはこれ以上我慢出来ないと思わせる程の作業量のせいでハネ上がり、その結果両者ともFLORIANの元から去り、彼等自身で今では伝説となったバンドを組む。NEU!である。
FLORIANはRALFを再び訪ね、戻って来ないかと説得した。それ以来というもの、この二人組は分ち難い間柄と成り、KRAFTWERKとして続いて行った。数年後に再度EBERHARD KRANEMANNは彼等と短期間活動した。これが初期KRAFTWERKにおける多くの紆余曲折である。」
途中ちょっとORGANISATION〜KRAFTWERKの間が省いてあるので「?」な部分もあるが、概ねこンな感じだったっつーのは判る筈。オレはFLORIANがRALFを誘って学生バンドでジャズクラブで演奏してたのは知ってた。で、その学生バンドがORGANISATIONかと思ってたケド、そーぢゃなかったのネ。リサーチ不足だったナ。つーワケで、KRAFTWERK初期に於いてはどっちっつーとFLORIANがフロントマンだったって感じだと、やっぱオレは思っちゃう。完全に「逆転」しちゃったのってきっと「AUTOBAHN」以降?ま、その辺のコトはFLORIANが自伝でも書いて明らかにしてくれないと判らンコトだネ。