ソフィア・コッポラのボブ・ハリスいじめ

ロスト・イン・トランスレーションの主人公ボブ・ハリスは、映画前半ではどーしよーもナイ扱いをされる。遠路遙々、栄光のハリウッドから東京へCM撮影に呼ばれて来た、嘗てのハリウッド・スターというのがボブ・ハリス。只でさえ落ち目で、マネージャーがいる気配すら無い。なのに、右も左も判らない不思議の国で、どー考えても無能な通訳をつけられたり、ロジャー・ムーアの様なポーズを要求されたりする。さぞかしボブのプライドはズタズタだったろうと思う。極めつけは接待の一環として用意されたコール・ガール。
これはオレが当て推量で「補足」するンだケド、あの妙ちきりンなコール・ガールは、彼女が予め与えられた「職務」を「忠実」に全うしよーとしてただけだ。ボブが好む「プレイ」を事前にリサーチし、それをコール・ガールに伝えた結果が、アレ。つまり、その情報自体がデタラメだったとゆーオチ。そーゆー風にしてボブは自分の男性としての主体性はおろか、性的嗜好すら「否定」される。ソフィア・コッポラが用意した日本とゆー舞台で。
ま、それらはベタなギャグ以上のモノではナイとも言えるケド、そのよーな「否定」を経て、ボブはシャーロットと出会う。シャーロットは日本に自分の居場所を見つけられず、孤独を感じる若い主婦だ。ボブのよーに自分を「否定」されるよーな目に遭った結果として、居場所がなくなってしまったのとは事情が違う。ケド、その孤独感を埋めるべく二人は共に行動する。皮肉にも、日本という場所が二人の孤独感を埋める触媒になる。
ボブはシャーロットに友人以上のモノを求める「欲望」がある。それは、そのよーにして「繋がる」コトで、やっとボブは自分を取り戻せると、無意識で信じているからだ。しかし、それはシャーロットが無防備にもボブの傍らで熟睡するとゆー事態で遮断される。寝込みを襲えば強姦同然になってしまう。ボブは希望を持って彼女の足を触るのが精一杯なのだ。その宙吊りになってしまった「欲望」は、代償行為としてのラウンジ・シンガーとのセックスで一時的に解消されるケド、それを京都から帰って来たばかりのシャーロットに発見されてしまう。
京都に行ったシャーロットは、結婚式の最中と思われる日本の男女を見て、初めて「感動」するナニかを日本に発見する。それまでは、日本のナニを見てもナニも感じナイと、そのコトを嘆いて泣く程だったのに。つまり、彼女はやっと日本と自分との「繋がり」をそこに感じるコトが出来たのだ。一方、ボブはまたしても「否定」の危機に立たされるハメになったワケだ。だから、ラストのキス・シーンは、ボブにとっては、ささやかながらも自分を取り戻すための「儀式」である。そーやってボブは自分に安堵し、やっと日本を発つコトが出来たとゆーのが結末。
ソフィア・コッポラそのヒトの、ある部分を投影させよーとしたのがシャーロットだとオレは思う。インタビューでも、彼女が東京で以前暮らした時の体験をベースにしてると語ったそーだし。では、ソフィアに「否定」の危機を常に付きつけられるボブとは、一体ナニモノなのか。
ところで、アカデミー・オリジナル脚本賞受賞は、ソフィアの父である、偉大なフランシス・コッポラネーム・バリューも手伝ってのモノだとゆー話がある。まー、あンだけファザコンっぷりが画面から臭っちゃ、しょーがナイか。