オヤヂにかけた呪いを解いてなるものか

ロスト・イン・トランスレーションにおいてボブ・ハリスは、日本という「無理解」に遭遇し、主体性を奪われ仕事を否定され性を否定される。ファッション・センスもダメ扱い。辛うじて、夫である義務や父親である義務を一方的に要求するボブの妻のお陰で、そーゆー面は保留されてるケド、ボブはそれに関心がなさそーだったりする。ボブの妻はいつでも一方的に連絡して来て、用件を伝えると一方的に話題を打ち切るよーな女性だ。それ以上のコトをボブに求めてナイ。それじゃー関心薄れるよナァと思ってたら、最終的に「日本にずっといたら?」とボブは妻に言われ、夫や父親であるコトも否定されてしまう。方やシャーロットはどーだったか。
シャーロットは京都で結婚式場へ向かう和装の男女を見て初めて日本に「感動」する。何故か。その場面は、神社と思われる場所の階段を、男性が女性を気遣いながら登ってイク所だ。シャーロットは、こー思ったに違いない。日本でも、あーやって男性は女性を大切にするのネ。二人を待つ階段の上には結婚式場。何てステキなの〜。エキゾチック・ジャパ〜ンだわ!私もあンな風に階段を登ってみた〜い!ウルウルリンッ!そーゆーのって万国共通なンだネ〜とゆー。白いチャペルで皆に祝福されて結婚するのアハ〜ンっつーのと変わらン。いーのか、ソレで?ミもフタもナイ…。
折角新婚なのに、カメラマンである夫は「愛してる」と毎回言うものの、仕事ばかりで妻のシャーロットを放ったらかしにしてる。夫の傍にいたくて、日本までついて来たのに、この仕打ち。日本のナニを見てもナニも感じナイと彼女は泣きじゃくるケド、それはそこで感情を共有する相手がいないからだ。彼女が自分の居場所を見失う理由は、その一点に尽きる。そンな時に「自分のあるべきイメージ」を京都での結婚式に見つけて涙する。自分のファンタジーをそこに投影するコトで感情を共有出来るコトを発見するのが、あのシーン。あら、私、一人でも大丈夫じゃナイのと。
感情を共有したくて、シャーロットはボブと行動を共にしてたワケだケド、それは勘違いだったとゆーのが、京都の場面とボブの浮気場面で端的に示される。シャーロットは、知らずに自分で自分にかけた「孤独」とゆー呪いを、自力で解いたケド、ボブには新しく「孤独」とゆー呪いのタネがまた発生。
シャーロットにとっては、「孤独」とゆー呪いから自分のコトを救いに来た王子様がボブだ。ボブはシャーロットの父親ほどの年齢だケド、そのお陰でボブは彼女の王子様とゆー地位を獲得する。保護者としての王子様っつーのかナ。だケド、その王子様な筈のボブは、彼女の呪いを解くどころか、寧ろ自分の存在自体にかけられた強烈な呪いを解かれたがってる。ボブにとっては、魔女にかけられたその呪いを解く女性がシャーロットな筈なのだ。
しかし、自分で呪いを解いてしまったシャーロットには、ボブに求める役割は既にナイ。オマケに浮気現場も見てしまった。ボブがアメリカに帰る朝、シャーロットは彼を殆ど無視してホテルを出て行ってしまう。でも、ボブはどーしても自分の呪いを解いてもらいたくて、シャーロットを追いかけ、自ら彼女にキスをする。彼女こそが自分の居場所だった、全ての属性を剥ぎ取った一個人として彼女が必要だったコトを伝えたくて。シャーロットはそれを受け入れるケド、やがて東京の雑踏に消えてイク。ボブを置き去りにして。
あー…書いててツラくなって来た。ボブ、ホントにロクな目にあってナイ。ラストにしたって、ボブからすれば、シャーロットの方からキスして欲しかったンじゃナイかと思う。でも、ソフィア・コッポラはそーさせナイ。どーしたって、ボブに託したオヤヂ像を否定し尽くさなければ気が済まナイ。エンドロール後にHIROMIXに「バイバイ」させてるのは、ボブ、もう来るなとゆージェスチャーである可能性すらある。偉大な父親に対する愛情と尊敬とが、自分の中で膨張し過ぎた結果、それを呪う映画でも作りたかったンだろーか。そーゆー意識にソフィアはまるで無自覚っぽいケド。無意識に噴出するオヤヂに向けた呪詛の映画、それがロスト・イン・トランスレーション。イヂワル〜な視点で観ると、この映画はこーゆー感じになるっつーコトで、このネタ一応終了にしとこ。
ま、この映画をこーゆー風な見方するのってオレくらいなモンかもネ。スゴく評価してるっぽく読めるかも知れンケド、前にも書いた通り、オレのこの映画の評価は「賞を取るまでもナイ」。「奨励賞」が関の山。