「えびボクサー」の巨大えびはナニモノなのか

邦題はもーコレッきゃナイっつー位ストレート且つ明快なこの映画、原題はCRUSTとゆー。オレはcrustと聞くと、どーしてもパリッパリのパンの皮とかを思い浮かべてしまうので調べてみた。Crustには甲殻類の「殻」っつー意味もあるンだってネ。Crustaceaは「甲殻類」。そーいや、そーゆー単語もセリフに出て来てたよーな。ま、えびはふつーprawnっつーンで、crustaceaなンてゆーと「難しい単語知ってるね」と感心されるに違いナイナ。オレは昔えびと言えば英語ぢゃshrimpと覚えてて、prawnと書かれた値札付きのえびを見た時「prawnってゆーンだ、このshrimp」っつったら、イギリス人に笑われた。「これ位の大きさのはprawnって言うんだよ。Shrimpはこれより小さいものだよ。」
そのShrimp即ち小エビを大量に喰わせ、殻に保湿剤を塗り、エラの中を掃除するっつー「お世話」を、巨大えびにしながら、成功を夢見る元ボクサーのオヤヂの話。それがえびボクサー。この巨大えびが獲物を捕らえる時にする動作であるパンチがボクシングに似てるっつーンで、巨大えび対人間ボクシングっつー「演目」で売ろうとするワケだケド、そーカンタンには売れなくて、イロイロと情けナ〜イ策略を巡らすっつーのが映画の前半。で、巨大えびは只のえびに過ぎナイっつーのに、映画後半では寧ろ元ボクサーのオヤヂが巨大えびに「感情移入過多」状態に陥っちゃうっつー事態が発生。結局、巨大えびを「見せ物」にするのがツラくなり、全財産を注ぎ込んで買った筈の巨大えびを逃がしちゃうンである。ダメダメぢゃねーか、ソレ。まー、つまり、ナンだ。そーゆー愛すべき「ダメ」さ加減を描いた映画なンだった。
ここで、映画的にダメと言われそーなのが、巨大えびの描写部分かも知れナイ。何しろ、オヤヂが巨大えびに「感情移入過多」になっちゃうのを、映画を観てる方は共有しづらい演出だからだ。巨大えびはそれなりに「カワイイ」目玉の持ち主ではあるケド、ま、圧倒的に「感情移入」を誘う描写が足りナイのだ。オレはそれを好意的に観ちゃってたワケだケド、映画のクライマックスで、まさか巨大エビが元ボクサーのオヤヂをhugするとは思わず、ズッコケた。えーっ、そークルかヨ。ソレで、一体どっちの方向へ観客の「視点」を振りたいのかが一瞬にして判らなくなっちゃった。オレはソレまでオヤヂを「冷笑」する方向だとばかり思ってたのだ。ところがだ。元ボクサーのオヤヂは巨大えびの「お世話」をするうちに、自分の抱える「孤独」や「絶望」を、どーしよーもナイと認識するに至り、そこから救われたいンだーと、やっと自分の「殻」を脱ぎ捨て宣言する。そンなオヤヂを優しく抱擁する巨大えび。嗚呼、この巨大えびって、映画世界を律する神であるお方の監督(それか脚本家)の化身だったンだー。オレにとっては、その一瞬で世界が逆転するかのよーな錯覚に陥って、クラッとキた。殺伐映画だと思ってたら、ハート・ウォーミング路線へイキナリ変化っつー感じ。そのショックで涙腺がユルくなったゾ。どーしてくれる!
実はcrustっつー言葉は「ツラの皮」を指したりもするそーだ。「面の皮が厚い」っつーヤツ。だから、オレはてっきり「冷笑」路線なのかと勘違いしちゃったワケだ。ソレが、あのクライマックスで逆転する。で。そ、それでホントーにイイのか?ダメを「ダメ」で駄目押ししてるって気がするゾ。あー、でもこの映画って、最初っから「ダメ」連発だったしナァ。元々「ダメ」を愛でる映画っつーンでは一貫してンのか。イギリス人ってこーゆーのホントにスキだナ。えびボクサーは、そンなイギリス人の作った映画だ。
で、同じよーに「島国」なので、気質がイギリス人と似てるとかって話もある日本人が早速作った映画がある。いかレスラーっつーのがソレ。こっちは「ライバル」のたこすら登場するB級エンターテインメント路線。ま、確かに同じコトをヤッてもしょーがナイっつえばそーだケド、えびボクサーの核にある「孤独」と「絶望」とを全面的に無視したデキであろーコトは、映画本編を観ずとも明かっつー気がするンで、観ナイ。